1897年(明治30年)以前の様子

 ▶ 愛知県渥美郡豊橋町立高等小学校 編(郷土誌より)


     牟呂・神野新田の記述から

・花田村より里道を過ぎ牟呂村に至る、この距離およそ一里(約4Km)

・牟呂村は内海に臨んでいたが、近年一大新田を築き神野新田と言い、その広さ一千余町歩あり、豊川の

 上流より水を引いてこの新田に注ぐ用水がある

・牟呂の海岸(柳生川の紀徳之碑の附近)より日々、田原の福江および伊勢地方に航する船がある

 

以上より

・里道とは、公共の土地にできた生活道路や農業道路の事こと、役場は道とは認めてない

・明治29年に神野新田が完工するが、その前は牟呂村の西が海岸だった

・道路が未発達なのと徒歩では大変なので、牟呂と田原や伊勢には航路が主流だった

 

結果、神野新田は外れの村のはずれであった

・明治21年に豊橋駅ができた頃の花田は豊橋村ではなく渥美郡花田村で、そもそも人が住んでなかった

 (火を噴く機関車は住宅地には危険だと嫌われており、豊橋駅は人家の無いミカン畑に作られた)

・そこから里道で一里にあるのが牟呂村

・牟呂村の港は梅田川河口、紀徳之碑の近く

・牟呂村の西の干拓地が神野新田であり、当時はとんでもない僻地だと考えられてたのでしょう


 ▶ 明治34年の牟呂港(雰囲気だけでも)


 ▶ 大正末期の牟呂港(牟呂史より)


 ▶ 港の様子(六条潟と西浜の歴史より)

 ・上から市場港、柳生川、牟呂港


 ▶ 郷土誌を画像にして貼りました


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