勝間田稔

 ▶ 毛利新田開拓を毛利祥久に斡旋した愛知県知事

・毛利祥久と同郷の長州藩(山口県)出身

・1885年(明治18年)に中央政府の役人から愛知県令(翌年県知事と呼称変更)

・東京から赴任当時は鉄道工事中でつながっておらず、移動は車を利用した

・下の「長坂理一郎」の記録を参照



 ▶ 県令豊橋へ来る(長坂理一郎「豊橋むかし話し」)より

 関屋の百花園の名が売れだすと、玉屋という札木の女郎屋の隠居が――なかなかお茶人であったので、やはり玉屋という渋い好みの料理屋をそこへつくりました。さすが客も風流な人ばかりで、今のように炭坑節でドンチャンやる客は一人も来ませなんだ。

 だから、県令などが地方へ巡視にくると、この玉屋を休憩所にあてました。知事(当時の県令)が東京から赴任する時、汽車はないので車でやってくるため、勝間田知事などは私の家で昼食をしたこともあります。

 知事が巡視のとき玉屋へ案内されました。芸者の接待は無礼だというので、当時月琴という楽器が大流行で上流家庭の娘たちはみんな習っていた。そこで、この令嬢らに頼んで飾り船に乗せて、大橋からお城下まで船中で演奏するのを、県令の耳に入れる、 といったサービスが行われたこともあります。

 当時、県令などの招宴は、県令だけに御膳が出て、今でいう市長、署長といった人々には御膳は出さない。お流れちょうだいでもあればいただくだけで、ただ県令が飲み、喰うのをみているだけです。その県令が満腹して、帰ると膳が出て酒が出て「やれやれ」と後からやるわけで、封建主義というのか、何だか知りませんが、昔は変った流儀でした。県令がそれだけ威張っていたわけです。


 ▶ 千歳楼

  ・長坂理一郎が経営する豊橋一の料亭「千歳楼」は、豊橋の札木町にあった

  ・写真は大正・昭和初期の札木町(著作権切れの写真集と購入した絵はがきより)