神野金平豊川稲荷参拝

 ▶ 1893年(明治26年)の豊川稲荷参拝の手段

金平翁を説得のため服部長七が金平翁を豊川稲荷に連れ出し、再度新田の検分に行く件があり、豊川稲荷と新田検分を交通手段他を推測してみた。

・豊川鉄道(後に名鉄に吸収)の豊橋駅から豊川駅間が開通したのが明治28年で

 あり、豊川稲荷を参拝した時の明治20年には豊川鉄道鉄道が無い

・汽車で名古屋から御津駅へ、豊川稲荷までの約8Kmは徒歩か人力車と思われる

・豊川稲荷からは御津駅へ戻り豊橋駅へ

・新田を検分する場所は、全方面が見渡せる東明治新田の西南の角が理想と思うが

 豊橋駅から東明治新田の西南の角がちょうど1里(4Km)であるので、書籍の

 記述と合う



 ▶ 金平翁と豊川稲荷を参拝した時の服部長七(神野金之助重行から)

 金平隱居は契約締結後の或日、偶々金之助と與に新田の検分に出かけたが、その時は恰も満潮の際とて、一望青海原を現じ、折柄の西風に帆を孕む船の去来する を見るのみで、新田の片影だも認ひるを得なかつたので、隠居が怪みて新田の所 在を問うた所、金之助翁は遙か沖合に点在する残杭を指しつつ、海と陸との境界で 有ったことを語るのであった。

 此状景を眺めて父金平隠居は、新田開拓の無謀なるを言ひ保證金を放棄しても宜しく速かに思い留まる可きであると力説したので、本来孝心深き翁は父の老胸を労することの不孝を思って、一時は新田の開拓計画を断念するの為すに至った。 然るに建築請負業の服部長七は成算十分なる本事業が資買契約の成立してる後に於て翁の放棄断念を決意した事は、恰も宝の山に入りながら手を空うして還るのなるを惜み、謀略を設けて金平隱居を豊川稲荷に誘出した。


 当時80歳の隠居は平生佛寺に參詣するを喜び、老境の日課としては数珠を手にして山門を訪ふこととしてあった事を知り、服部がその機に乗じて之を利用せんとしたものである。 帰途彼は巧に隠居を説いて遂に新田所在地の再検分を行うことを承諾せしめ、約一里の路を徒步して再び新田の地に向かった恰もよし、その時は干潮期で鹹鹵の千瀉が見渡す限り広々と露出し、地先には堤防の崩壊跡も点在していた。嚮に翁を伴うて検分した時は白帆の去し来たる海、今は隻影だも見ずして但だ一望コ広闊、陸地面を現はしている。服部は言葉を尽くして半歳の後には誓って堅牢なる堤防を尊覧に入れんと力説したのである。併し隱居は只黙々として其言ふ所を聴くのみであった。 而して両人名古屋に帰来して後も、服部は毎日隱居を訪うて築堤工事を堅牢にするを得べき保證し、将来新田が大富源となる可きことを反覆説明する所があった。

 本来金平隠居はもとより明治初期の新潮流に乗り、世間に卒先商海に来り出した程の人物で、決して頑固一徹の「分らずや」では無かったので、此熱誠ある勤説を聽きて、共懐いた疑問もの次第に雲散霧消して、新田経営の可能性あるを肯定するに至り、茲に売買契約の履行を賛成したのである。