初代神野金之助の視察

 ▶ 神野新田開拓前の視察

・明治26年春の毛利新田視察時は鉄道が開通していた

・壮年になって画新田開拓に興味を持ち巡視したとあるが、その時の交通手段は

 年表」にあるよう、明治26年の神野新田工事着工前の三津浜港視察時に、伊予

 鉄道の松山と三津を利用した可能性がある

・なお三津浜港は松山で一番古い港で、明治28年に夏目漱石が松山に赴任する際に

 上陸した港であるが、大きな船は接岸できる船着き場も無く、沖の船から小舟で

 乗り移っていたとのこと



 ▶ 豊橋以西の鉄道開発の歴史

 ・年不明        神野金之助著「神野新田紀事」に「世は壮年より新田開拓に大いに興味を持った

             海浜の新田開拓は有用な土地が増えるため、国がより豊かになる。 開拓の知識を深

                めるために、私は全国の海岸を巡回して、新田開拓の実情を多く視察してきた」

 ・1884年(明治17年服部長七、宇品港(広島港)工事開始

 ・この間の年不明    広島県の工事費不足で、初代神野金之助と服部長七が知り合う(注1)

 ・1889年(明治22年)宇品港(広島港)工事完成

 ・1885年(明治18年)服部長七、愛媛県三津浜港築堤

 1888(明治21年伊予鉄道、松山~三津間が開通

 ・1893年(明治26年)神野新田工事着工前に宇品港と三津浜港を視察 

 1893年(明治26年)神野新田工事開始


  注1

・服部長七は子爵品川弥次郎に気に入られ、その斡旋で広島県の宇品港(広島港)の工事を請け負った

・しかし広島県は工事費が支払えない事態に陥り、工事費の代償に呉港隣接地の吉浦(よしうら)にある

 官有地の分割払い下げと、その地を特別施設を作る利権をもらうこととなった

・すぐに現金に変えることが出来ず、長七は人夫や材料費等の支払にも困り、品川子爵に相談した

・品川は親交のある初代金之助に援助を頼み、金之助は吉浦の土地を担保にして所要の金額を用立てて長七の

 窮地を救った

・この時、金之助は宇品港の「人造石工事」を視察しているはず