鉄道の歴史

 ▶ 豊橋駅を中心にした鉄道路線図(明治22年の書籍から)

 ▶ 豊橋駅ができる前後の状況(明治22年の書籍から)

 ▪明治19年 4月  1日 加納(岐阜)駅 と 熱田駅 が開通

 ▪明治19年 5月  1日 名護屋駅(今の名古屋駅の場所ではなく笹島地区に が 加納(岐阜)駅 と 

           熱田駅 の間に作られる

 ▪明治19年       武豊線の 熱田駅 と 武豊駅 が開通

 ▪明治20年       大垣駅 と 加納(岐阜)駅 と 木曽川駅 が開通

 ▪明治20年 7月11日 国府津駅 と 横浜駅 が開通

 ▪明治20年 9月10日 大府駅が東海道線と武豊線への乗換駅として作られる

 明治21年 9月  1日 大府駅 と 浜松駅(駅舎も同時完成) が開通、豊橋駅も駅舎完成と共に開通

 ▪明治22年 4月16日 御殿場線経由で 浜松駅 と 国府津駅 が開通、国府津駅 と 新橋駅 も開通

 ▪明治22年 7月      神戸 と 新橋 600.2kmが全線開通

           (当初、神戸  ⇔  新橋間の直通便は1往復、所要時間は片道約20時間)  

  ・明治21年9月1日に 名古屋駅 と 豊橋駅 間の鉄道が開通した

  ・毛利氏が毛利新田の開拓を始める明治20年は鉄道は無かったので、移動には相当苦労したでしょう

  ・神野新田工事の始まりの明治26年は鉄道が使えたこともあり、移動には非常に役立ったと思われる

 ▶ 東海道本線(Wikipediaより)

 明治時代に入ると、政府は東京と大阪を結ぶ鉄道の計画を持ち上げたが、当時は東海道経由と中山道経由の2案があり、方向性が未決定であったため、まずは流動の多い東京 - 横浜間を支線として先行開業させることとなった。 まず1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)に新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間が日本で最初の鉄道として開業。翌年9月15日からは貨物列車の運行も開始された。一方関西では1874年(明治7年)の大阪駅 - 神戸駅間の仮開業を経て、1877年(明治10年)2月5日に京都駅 - 神戸駅間の営業を開始。1880年(明治13年)には逢坂山経由で大津駅(現在のびわ湖浜大津駅付近)まで延伸され、大津駅 - 長浜駅間には太湖汽船による琵琶湖経由の鉄道連絡船が開設された。

 1883年(明治16年)8月、政府はすでに東京 - 高崎間(現在の高崎線)の建設が決まっていたことに鑑み、東京 - 大阪間幹線鉄道を中山道経由で建設することを決定(中山道幹線)。中部地区ではこの中山道線建設のための資材輸送を目的として、現在武豊線となっている区間を含めた武豊駅 - 木曽川駅間が1886年(明治19年)に開業。また1884年(明治17年)には中山道ルートの一部として大垣駅 - 関ケ原駅 - 長浜駅間が開業している。

 しかし1886年7月、政府は東京 - 大阪間鉄道の予定経路を、工期が半分に抑えられるとして、工事の難航が予想された中山道経由から東海道経由に変更した。ただし、既存路線を積極的に活用して建設予算を低減する方針から、名古屋 - 草津間は江戸時代の東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートでの敷設となった。

 この後は一大プロジェクトとなり、一気に建設が進んでいった。1887年(明治20年)には木曽川駅 - 加納駅(現在の岐阜駅) - 大垣駅間、横浜駅 - 国府津駅間、浜松駅 - 大府駅間が開業。武豊駅 - 大府駅間は支線化された。1889年(明治22年)に国府津駅 - 浜松駅間(現在の御殿場線経由)、そして同年7月に関ケ原駅 - 米原駅 - 馬場駅(現在の膳所駅)間が開業し、こうして新橋駅 - 横浜駅間開業から17年の月日を経て、新橋駅から神戸駅までの600.2kmが鉄路で結ばれた。このとき全線直通列車が1往復運行され、所要時間は20時間強であった。なお正式な路線名称はこれまで設定されていなかったが、1895年(明治28年)には「東海道線」の路線名称が与えられた。このときの路線は、伊豆・箱根、伊吹山、逢坂山という交通の難所において、ルートが異なっていた。

  最初のころは、「宿場にお客が来なくなる」「汽車が火事を起こす」などと宿場から反対された結果、市街地に用地を取得できず多くのルートが郊外に建設されたため、宿場から離れた地点に設けられた駅も多かったとも言われている(鉄道忌避伝説)。ただし、当時の新聞記事や県の記録などには、東海道各宿が積極的な誘致運動を行っていた記録はあるが、反対運動を行っていたという記録が見つからないことから、これを否定する見解もある。(豊橋駅も町から離れた花田村のミカン畑の中に作られた)

 日清戦争終戦後の1895年(明治28年)10月には、神戸駅から西へ伸びる山陽鉄道(現在の山陽本線)との直通運転が始まった。翌1896年(明治29年)には新橋駅 - 神戸駅間の急行列車の運行が開始され、1900年(明治33年)には寝台車、1901年(明治34年)には食堂車の連結も開始されている。1906年(明治39年)には最急行が登場し、1909年(明治42年)には新橋駅 - 神戸駅間が12時間50分にまで短縮。明治最後の年である1912年(明治45年)に最急行が特別急行(特急)に変更され、新橋駅 - 山陽本線下関駅間で運行された。

  名古屋駅は、1886年(明治19年)4月1日に加納(翌年に岐阜と改称) - 熱田間がまず開業し、その翌月の5月1日に名護屋駅が、当時の広井村笹島地内に開設された。場所は現在の駅より200mほど南方、今日では笹島交差点のある辺りであり、当時は葦が茫々と繁る湿地帯であった。金山付近は台地のため線路を切土構造にして、そこで発生した土砂を運搬して湿地帯に盛土するという土木工事が行われた。


 ▶ 豊橋市/とよはしアーカイブより

東海道線と豊橋駅の開業

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 東海道線の開通にともない、豊橋駅が明治20年(1888)9月1日に開業した。開設当時の豊橋駅は、一般に豊橋ステンショとよばれ、現在地よりも少し西よりにあった。駅舎は約45坪(150平方メートル)、平屋建て瓦ぶきの建物であった。この敷地は伊東次七が無償で提供したといわれている。

 東海道線の各駅のほとんどが当時の市街地から遠方の地に設定されたのに対し、豊橋駅は、当時一番の市街地であった上伝馬(かみでんま)町から約600メートルという近い距離に設けられた。しかも、駅舎建設と並行して上伝馬町までの間に停車場通りが開かれた。これはその後の豊橋の産業・経済や市街地の拡大・発展に大きく役立つことになった。

 豊橋駅が市街地に近接しているといっても、このころの駅周辺には田んぼや麦畑が広がっていた。停車場通りも、みかん畑や薮(やぶ)のなかを横断していた。旅館にしても、駅前に壷屋(つぼや)、岡田屋、相模屋(さがみや)の三店があるだけで、停車場の貨物を扱う運送屋も吉田方の藤城六十吉ら二、三人が共同でつくった二間程度の掘立小屋が唯一のものであった。

 豊橋駅が開業してすぐに、岡田恒三郎が構内人力車の営業を開始した。これ以降は毎日、常時一〇台前後の人力車とその車夫が駅前広場に集まり、汽車の到着を待つ風景が目を引いた。また、翌二十二年には加藤庄六(しょうろく)が弁当の販売を開始した。

 なお、二川駅は豊橋駅の開業よりも8年遅れ、明治29年(1896)四月に開業した。開設された場所は二川の町並から西に離れたやや不便なところであった。

 東海道線の全通にともない、旅客運賃はそれまでの区間制から距離比例制に変わり、下等は一マイル(1.6キロメートル)1銭、中等2銭、上等3銭となった。その後、運賃は若干の改正があったものの、明治期を通じて大きな変動はなかった。当時の人夫の日当が20~25銭であったから、2日間働いた手当てで浜松~豊橋間を往復できるかできないかというほどの高い運賃であり、一般大衆が手軽に利用できたわけではない。なお、上・中・下等と呼んでいた客車は、明治30年11月に、1等白塗り、2等青塗り、3等赤塗りというように色別されるようになった。

 豊橋駅での乗降客人員と取り扱い貨物の数量、およびその収入をみると、開業から4年後には年間の乗客が10万人近くに達し、さらに5年後にはその2倍近くに増加し、明治32年(1899)には40万人近い乗降客になっている。貨物も、乗降客と大体同じような比率で取り扱い量が増加している。

 明治30年には入場券の制度ができ、31年に初めて急行列車に電灯がついた。

明治40年末には豊橋~蒲郡間が複線となった。このころになると乗降客はさらに増加し、翌41年の年間乗降客数は70万人を越えるに至った。貨物の増加もいちじるしく、非常時における第15師団の移動の問題ともからみ、手ぜまになった豊橋駅の拡張を避けがたいものにした。こうした実情から市と商業会議所は関係当局に豊橋駅の拡張を請願した。陸軍省もこれを支持し、総経費15万円の拡張が決定した。拡張のための敷地8,800坪(29,000平方メートル)も43年(1910)に買収が終わり、直ちに着工の予定であったが暴風雨による洪水のために遅れ、着工は翌年になった。新駅舎が完成したのは大正5年(1916)である。


豊川鉄道の誕生

 現在の飯田線の前身である豊川鉄道は、明治29年(1896)より着工され、30年に営業が開始されたが、着工に至るまでに多くの問題を抱えていた。豊川鉄道の最初の敷設(ふせつ)計画は、士族授産の一つの方法として、豊川稲荷への参詣客(さんけいきゃく)の輸送を目的に旧吉田藩士により発案・請願された。しかし、これに刺激されて7路線の鉄道請願合戦となり、最終的に決定したのは27年のことであった。

 その後、33年には大海(おおみ)まで延長され、全長27.9キロメートルとなった。沿線には、豊川稲荷、砥鹿(とが)神社、野田城址などの観光名所があって評判はよかったが、貨物収入が最初の見込みより少なくこれが経営難の一因となった。